2009年08月05日
初夏の霊山寺
寺社の景観


霊山寺は高槻北部の山間にひっそり佇む古刹、宝亀9年(778)光仁天皇の皇子開成によって開かれた真言宗の寺院です。
開成皇子は神峰山寺、本山寺、安岡寺も創建に関わったとの伝承になっており、いずれも空海、最澄の密教のひろまりと機を一にしています。往古は寺領24町歩、4僧坊がありましたが、高山右近に焼かれ、萱之坊だけが今日に残りました。
不動明王を本尊とし、本堂は享保年間、薬師堂は天明年間の建造、現住職が改修に改修を重ねて、輝きを増しました。


境内の西端に薬師堂があります。境内には杉の大木があたりを圧しています。
不動明王を祀る本堂、昨年修復されました。
当寺は市道萩谷線から左に入り込んでいるために、人目につきにくく、このような静寂の地があることに気づかない人も多いと思います。
庫裏も改修されて趣のある立派な建造物です。

この境内からの眺望はすばらしいです。
撮 影 日 2009年7月
撮影 場所 霊仙寺町1丁目(地図)
投 稿 者 sokemuku
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Posted by 高槻市
at 08:24
│Comments(4)
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高山右近がどれだけの寺社を焼き払ったのか、史料的な限界があるため、右近ファンや市役所からは焼き討ち否定説まで出ているようですが、高槻市民としては気になるところです。
あのあたりはほんとうに眺望がよいです。
右近が焼いたと伝わる神社仏閣は、実は永禄11年、足利義昭を奉じて上洛、高槻にも遠征し、高槻近辺に勢力を張る三好、松永勢力の建造物、とりわけ芥川城を攻略する際に、敵のトーチカとなる建造物を片っ端から消却した織田信長が真犯人だと私は考えています。
大蔵寺という臨済宗の大寺院も、摂津國守護細川氏の菩提寺ということもあって、しかも芥川城を攻撃する際に敵の防御陣地にも利用される恐れのあるものは、徹底的に破却したと思います。この寺院は大蔵司橋の東詰め、現雇用促進住宅、服部宿舎のあたりに存在したもので、すぐ近くの今城塚に陣地を構築した信長にとって、掃討作戦の上で邪魔な存在だったからです。
霊山寺も三好氏の砦に使用される恐れがあったから、先手を打って消却したものと私は考えています。
いろいろ知らないことが多くて参考になります