2008年09月30日
哀しくて美しい話
市街地の景観


慰霊塔と犠牲者の名前
74年前、昭和9年9月21日午前5時、四国室戸岬付近に上陸した台風(室戸台風)は、8時ごろ最大風速60Mの猛烈な勢力で阪神地区に再上陸し、各地に甚大な被害をもたらしました。
中でも小学校の被害が大きく、180校、489棟の校舎が全半壊し、死者は教諭7名、用務員25名、小学生267名におよぶ未曾有の大惨事となりました。
高槻芥川小学校でも校舎の一部損壊によって4年生5名が痛ましい犠牲となりました。その慰霊碑が校舎裏にあり、毎年命日に当時の同級生が集まり、慰霊碑の前で追悼の会を催してきました。
当時小4の皆さんはすでに83~84歳、年々集まる人も少なくなり会の継続も困難になってきています。このため犠牲者の弟御であるY氏が引き継いでお世話をすることになっているという話も聞きました。
また、このことは歴代の校長にも引継がれていて、今後もこの痛ましい遭難が風化することなく語り継がれてゆくものとおもわれます。

小学校跡碑
奇しくも芥川小学校は、いまのJTの地にあったものが、前年の昭和8年にこの場所に移転してきたばかりでした。
新しい校舎であったことが、教諭3名を含め33名の死者を出した如是小学校に比べ少ない犠牲者でとどまったといえるかもしれません。(室戸台風:如是小学校)
撮 影 日 2008年9月21日
撮影 場所 真上町1丁目(芥川小学校)(地図)
投 稿 者 むかご
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Posted by 高槻市
at 07:56
│Comments(5)
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室戸台風と言えば、如是小学校で多くの犠牲者が出たことは有名ですが、芥川小学校の生徒さんも被害にあわれたのですね。
新校舎移転後で被害が少なくて済んだのが不幸中の幸いですね。
最近、大きな台風が来ないので忘れていますが、年に一度は台風の恐ろしさを思い出して備えをしておかなくてはいけないなぁと思いました。
私が小学生の頃は、人口が急激に増えて校舎が間に合わず、プレハブ校舎で勉強したことを思い出します。今になって思えば怖い話ですね。
台風情報を私たちは天気予報で知りますが、日本で初めて天気予報が発表されたのは、明治17年6月1日だそうです。それで6月1日は「気象記念日」になっています。
この天気予報が、戦時中は敵に情報を与えるという理由で中断されました。(昭和16年12月8日から。再開は昭和20年8月22日)
室戸台風は昭和9年ですので、予報は出ていたと思いますが、何しろ台風が強すぎた。むかごさんの「室戸台風」をクリックすると、最大風速は60m/sを観測して観測機が故障した。とありますから凄いですね。
私は、高知市で生まれ育ちましたが、お祖母ちゃんが「室戸台風のときは、雨戸も障子も外して風を通り抜かした、雨戸を閉めていると家が倒れるから」と、台風の度に話してくれました。それほどきつかったんでねぇ。
合掌
JTの横になんでこんな大きな空地があるんやろ。と思いながらJTの周りを歩いていたらこの小学校跡碑にたどり着きました。
あーこれむかごさんの記事にあったやつや!
この記事がなかったらただ通り過ぎただけでした。
あーここ「ええとこブログ」で見た!
それが、このブログの目的、高槻を好きになる一歩だと思いました。
この碑は体育館の裏、プールの横にありましたね。
なぜか随分と薄暗い、じめじめしたところに在ったのを記憶しています。亡くなられた方、というか幼い児童・・・・。そして先輩。
なにか学校でその日に偲ぶ行事があれば良かったなと、この年になった今、思います。そのころの高槻、革新のなのもとに、
教育も間違った方向にいっていましたね。
この日のことは、母から小さい時から聞いています。
祖父母は、その後辛い日々を送ったようです。
母に言わせると、そのため祖父母は生まれ故郷の九州には戻らず、
高槻にとどまり一生を終えたんだろう・・・と。
台風がくると、私自身は会ったこともないオバに思いを寄せています。
こういう慰霊碑があることに感謝です。