2009年01月27日
利井常見寺
寺社の景観

利井常見寺(かがいじょうけんじ)は浄土真宗本願寺派の寺院です。
歴史は古く1300年前後に清和源氏、利井七郎隆房が浄空法師として利井坊を建立したのが始まり。


1595年に本願寺十一世顕如の薦めもあり現在の利井常見寺になる。女瀬川に沿う如是(にょぜ)町の命名は三代前の住職によるもの。 (高槻市観光データベースより)
撮 影 日 2009.1.22
撮影 場所 東五百住町(利井常見寺)(地図)
投 稿 者 銭無のとっつあん
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Posted by 高槻市
at 10:58
│Comments(5)
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○行信教校・行信仏教学院
利井常見寺の住職等が明治15年に創立。3年制の行信教校、1年制の行信仏教学院がある。卒業生は約3000人でにおよび、本願寺派の勧学,司教の学階にのぼった人達も少なくない。
○冨寿栄黒松二世
境内に、本照寺にあった元天然記念物・冨寿栄黒松(枯死)の松の実がスクスクと育ってきている。
○太鼓堂
常見寺の門に並んである。昔はこの御堂の二階に納められている大太鼓を打つことで様々な法事や催し行事等の開始を知らせた。今では「よすみ日曜学校」が開催され、毎日曜日には小学生以下の子供達が集まる催しの場となっている。
あと、お寺のサイトも充実していて、「お聴聞の会」(法座)などもあり、地域の人への暖かい心遣いみたいなものも感じました。
また、サイトには真宗のいろんなことも解説してあって、気軽に仏教やお寺のことにアプローチできるようになっているなぁ~と思いました。
(利井常見寺ホームページ)
私の名前をクリックすると、ホームページにいけます!
「女瀬」を「如是」と変えて表記したのは常見寺の住職だと私に話されたことがありますが、「如是」の文字は古くから使われていました。それは元禄時代以前から確認できます。元々、氷室村は女瀬川が貫流していますが、川の東部つまり左岸は「女瀬川村」と呼称されていました。天和2年に亡くなった我が先祖の古藤一郎右衛門福家という人の妻は、この氷室村から来ていましたが、その墓石に「如是川村之人」と刻まれています。過去帳にも同様に記載されています。
従って、「如是」という表記は利見寺住職の発案ではなく、以前から使用されていた表記を明治の町村合併で新村が誕生したとき、それを当てはめたにすぎないと考えられます。
伝承というものはきわめて不正確なものであり、史実に反する場合が多いものです。
貴重なご指摘、ありがとうございます。
確かに「如是」という表記は以前からあったものと考えられます。
おそらく経典の「如是我聞…」からとられたものなのでしょう。
川の表記も「如是川」とすることもあったのでしょう。
ただ、「如是町」の表記が以前からあったものなのか判明しません。
「如是」の表記を使って、新しい町の名前を命名することはあったかもしれません。
この記載事項が妥当であるか、ないかは、詳しく調べる必要があります。
高槻市データーベースの関係者の方がご存じだと思います。
『ふるさとの風土 高槻』(高槻青年会議所)によると、「明治22年の町村制施行の際、常見寺住職・明朗和上が、この地に流れる女瀬川の名に因んで命名したそうです。
女瀬村としたら、女の子ばかり生まれたので、和上に相談して如是と変えてもらったという説もあります。」と記述されています。
また、『日本地名大辞典』(角川書店)によると、「如是村は女瀬川に仏教語「如是我聞」の字をあてたものといわれている。」とあります。(とっつあんさんのコメント)
しかし、『大阪府全志』(大阪府全志発行所)によると「女瀬川には一に如是川の名あり、依て其の名を採りて如是村と名づけ」とあり、如是川から如是が付けられたことがわかります。
しろあと歴史館の方によると、この本は客観的に記載されており、もっとも事実に近いのではないかということです。(如是村は明治22年から昭和9年の自治体名)
ほんといろんな説がありますね。こういった言い伝えを発信していくこともこのブログの使命かもしれませんね。
道が分からなかったので、ある方に教えて頂くと
「極楽橋を渡って・・・常見寺さんに行きます。」と
説明された事を思い出しました。
その時は単純に「極楽橋」の先に常見寺さんがあるんだ・・・
と、思っていたのですが、もしかして「如是」と「極楽橋」は
関係があるように思えるのですが・・・如何でしょうか?