2008年09月23日
神社大集合
寺社の景観
阿久刀神社境内に「ミニ神社」が大集合しています。
明治の初めの「一村一社の令」により、芥川村内の神社が阿久刀神社境内に集められたそうです。
(阿久刀神社自体は、水運の要衝だったからか、住吉大神を祭神としているそうです)
「芥川村」として管理したいのに村内に地域の核となる神社がごちゃごちゃあってはやりにくいということのようです。「平成の大合併」とよく似た風景が芥川のほとりにありました。
撮 影 日 2008年7月頃
撮影 場所 清福寺町(地図)
投 稿 者 岩崎健一郎
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Posted by 高槻市
at 11:51
│Comments(3)
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国の存亡の危機に直面し、新しい日本をつくるには多くの同胞の血が流れました。
天皇を中心とする新政府が、国民のベクトルを合わせ近代化を進めるには、皇祖を祀るとされる伊勢神宮を頂点とする神道を国の隅々までいきわたらせる必要があったのでしょう。
明治元年の「神仏分離令」は、神仏習合の寺社から神と仏を峻別して神道を国教化することが目的で、その後すべての宗教に超越したものとして国家神道が徹底されていきます。
明治6年、徴兵令公布し、明治27~28年の日清戦争・明治37~38年の日露戦争は戦勝しました。為政者は、国家神道で結束したと思ったことでしょう。
その思想を更に強固なものにするため、「一村一社の令」が明治41年に施行されたのでしょうか?
神道にしても、仏教にしても、それ自体は心の平穏を求める純粋なものだと思います。為政者が宗教を利用することが国民を苦しめるわけで、それは現在も世界各地の戦乱の素になっていると言えるのではないでしょうか。
そこで少しお話を伺えたのですが明治五年の神社整理統合令によってこちらに集められたとの事でした。
また、この神社は全て個人所有だったもので今でもその家の方が管理(?)されているらしく「向こうからAさん、Bさん・・・」と
教えていただきました(ちょっと覚えきれなかったです(笑))
ここからは推論なのですが、同じ清福寺町内に清福寺太子堂があります。そこの説明では近隣に大工さんが多数いたので建築の祖(だったかな?)
である聖徳太子を祭るためのお堂が建てられたと書いてあります。
その大工さんたちが自分の腕を競うために自宅に神社を建てていたのではないかとか・・・。
また、岩崎健一郎さんの書かれている様に「水運の要衝だった」のであれば多くの大工さんを支える材木商も勢を競い合っていたのかもしれません。
こう言っては失礼なのですが、あの規模の神社に統合されるには多すぎる感じがします。
あくまで推論なので実際はどうか分かりませんが・・・。