2007年10月18日
豊穣
農地里山の景観


高槻のええとこブログに載っていた「黄金の海をわかつ彼岸花」を探しにいきました。
高谷さんの写真が素晴らしいので自分の目でみたくなりました。


あいにく彼岸花は盛りを過ぎていましたが、好天に稲穂の揺れる秋を堪能しました。


撮 影 日 2007年10月6日
撮影場所 西之川原1丁目(地図)
投 稿 者 kimama
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Posted by 高槻市
at 09:03
│Comments(6)
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暖冬や時代の流れなどで作らなくなりました。寒天は食べると美味ですが、さびしい限りです。
また、稲穂も刈り取られる時期に来ていますが、ある意味で、今年も順調に育っているので一安心だと思います。
とはいえ、麺類やパンなどがコメに変わって主食となりつつあるのもまた、さびしい限りです。
寒天に関しては、高槻市発「大王の国から」に詳しく記載されていますので、時間があれば、見て下さい。
ここを何度か通りかかったことがありましたが、初めて知りました。
また、原にも寒天小屋が3つくらいまだ残っているそうです。(生産はしていませんが・・・・・)
このブログで、以前「聞力寺」が紹介されていますが、京都・伏見で寒天づくりを学びこの地に持ち込んだ、宮田半平の顕彰碑があります。
http://takatsuki.osakazine.net/e30246.html
すこし昔、高槻のの原・塚脇地区は国内屈指の生産量を誇ったそうです。
そんな高槻の誇るべき「寒天づくり」の歴史をなんらかの形で、後世に残していきたいと思いました。
>上ひらさん
ここがそうだったのですね!
もう10数年前になりますが、吹田の国立民族学博物館のビデオトープ??で高槻の寒天作りというのを見ました。
寒天作りというのは、なかなか厳しい作業だったようですね。
その中で体験者のお話やいろいろな設備の説明もあったと記憶しています。
また、わが子たちが学校の給食で地元の食材として糸寒天を使った酢の物のレシピを持ち帰ったので、家で作ったこともありました。
彼岸花も豊穣ももう時期を逸してしまいましたが、寒天小屋を撮影していたとわかって、なんだか得した気分です。
子はカスガイさん、上ひらさん、ありがとうございます ☆彡
今ではすっかり稲刈りが終わって、風景も一変していますが、それもまた、季節ものとして素敵です。
で、この寒天小屋は服部地区の最後まで経営されていたもののようです。
「大王の国から」でも記載のとおり、冬の凍結と乾燥を繰り返すゆえに気温の低い地区で、かつ、まきで煮たくので山林に近い山すそと言う条件からも、原やこの西之川原周辺などは地形条件的にも適地ということのようです。
こういう建物が、まだ残ってる時に中を覗きたくなりました。
(興味本位です)
こういう歴史や経過を知ることは、今を見つめるにも必要なことじゃないかなと思いました。
寒天という名称は、黄檗山万福寺の隠元和尚が、「仏家の食用として清浄これに勝るものなし」と賞揚し、名付けたそうです。
1881年、ロベルト・コッホが、寒天培地による細菌培養を開発。第二次世界大戦になると、戦略上、日本は寒天の輸出品禁止。
困った外国が開発したのが、自然に頼らない、粉末寒天だそうです。
昭和30年代、摂津峡へ遊びに行くと、寒天作り風景に出合いました。
また、高槻は近隣に鳴り響いた松茸の名産地。山裾に紅白の幕が広がり、松茸狩りの客を招いていました。
あんな景観をもう一度見たいものです。
地球の温暖化で、高槻の寒天作りは消えました
つい見過ごしてしまっていたところに目をとめるようにもなりました。
駅近くに住んでいますが、「ぁ、ここ、空が広い」というポイントや「ここから市役所見えてる」というポイント、「カメラ持った人がいる、ええとこが近くに!?」ときょろきょろ。
12月まであるなら、クリスマスイルミネーションを探し回ろうと思っていたのに、見つけても投稿できないのでさびしいですね。
自分の撮った一枚の写真から、歴史の勉強や、温暖化の勉強、糸寒天の調理法まで、楽しく勉強できました。
タナカジロウさん、せいろうさん、ありがとうございます。