2015年06月11日
水田に映る新緑の素盞嗚尊神社
農地里山の景観

素盞嗚尊神社(すさのおのみことじんじゃ)の東側は、かつて奈良時代に嶋上郡衙(嶋上郡の郡役所)のあったところで、
この神社が創建される前は、ここには郡の繁栄を願う郡寺(芥川廃寺)があったとされている。
郡寺は白鳳時代、7世紀に創建され、平安時代中頃まで続いたと考えられている。

素盞嗚尊神社の周辺は水田で、例年6月初旬の2~3日で田植が行われる。

水田に映る素盞嗚尊神社の新緑の森はこの水無月にしか見られません。


撮 影 日 2015年6月6日
撮 影 場 所 郡家新町 素盞嗚尊神社(地図)
投 稿 者 大岡成一(VG槻輪)
↓ランキングに参加してます☆是非一日ワンクリックお願いします♪m(__)m

Posted by 高槻市
at 13:00
│Comments(2)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
ただ、この神社が素盞鳴尊神社と呼称されるようになったのは、明治の初年、いわゆる廃仏毀釈、国家神道が一斉を風靡したときに改名されたものです。
本来は牛頭天王社、ご承知かとおもいますが、牛頭天王は渡来神、釈迦の祇園精舎を守護する神ですね。これは秦氏が渡来したときに我が国に伝えた神で、多くの神社で牛頭天王は祀られていました。
奈良時代、この神は我が国の須佐鳴命と習合されたもので、牛頭天王を祭神とする神社はすべて須佐鳴命も合わせて祭祀しています。
服部の神服神社は秦氏の先祖とその氏神牛頭天王を祭祀していますから、天保14年までの村明細帳では氏神牛頭天王と記載されているのに、明治になると素盞鳴尊神社に書き換えられています。国粋主義を尊重するという時代の流れでした。
島本町にある「若山神社」も本来は「西八王子神社」だったのですが、八王子は牛頭天王の8人の王子であるために、その社名を神社のある小字名「若山」に変更したものです。
さて、郡家の素盞鳴尊神社、本来は牛頭天王社ですから、秦氏の子孫が祭祀したものに違いありません。
阿久刀神社も服部神を祭祀しており、神服神社とは同族、郡家一帯は古代には秦氏を族長とする勢力が播踞していたのでしょうね。山城の秦氏は先住の鴨族に協力したように、三島の鴨族三島氏に協力した秦氏一族が播踞していたことは容易に頷けます。
境内の真ん中に大きな神木がありこの辺りが守られている感を感じとても気持ちがよかったです。
今日は無人でしたので
お休みなのか、現在は管理されている方がいらっしゃらないのか、地域の方が守ってらっしゃるのかわかりませんが
また寄りたいと思える場所でした。
次は掃除道具持って行って草引きしようかな。