2010年10月17日
34年前の塚脇橋周辺風景
農地里山の景観
塚脇橋の右岸から下流に向かって撮影したものです。
現在は、手前の田んぼが無くなり道路になっています。
当時は、芥川の護岸がされていない堤防に木や草が生え、周りには田んぼと里山がある風景が調和した場所だと思い、撮影しました。
まさか、この田んぼが無くなって道路が出来るとは思いもよらなかったです。
塚脇橋下流の西側の山より塚脇方面を望んだ風景で、冬には寒天作りなどがあった場所です。
今は、広い道路が出来て、バス路線も新しい道路を通っています。
この田園風景も道路や建物が増えて変化していくのでしょうか。
撮 影 日 S51、S52
撮 影 場 所 塚脇(地図)
投 稿 者 カメラを持ったムカシトンボ
↓ランキングに参加してます☆是非一日ワンクリックお願いします♪m(__)m
Posted by 高槻市
at 12:00
│Comments(4)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
遊歩道が出来ていない時代の景色、橋のたもとに水田が写り、田刈堰で水遊びする人たちが見えます。51、52年頃といえば、もう南平台が開発され、右岸にはゴルフ場、中央丘陵部には住宅が建ち並び、雨が降るたびに土石流が流れ出し、川は汚れていました。塚脇あたりでも上流の原から出灰にかけて沢山の採石場があり、そこから流される汚泥が堆積し、中州には雑草が生い茂っていますね。昔は中州は川原で、きれいな小石や岩石が転がっていたのですが、、、
右岸の田んぼは、服部村一ノ湯堰の上流にある広湯堰から取水した水が、かじか荘の中を流れ下り、新田の用水に使用され、今のアクアピアの小池まで繋がっていました。今も水路はありますが、道路の側溝になり、風情はなくなりました。バス道路や遊歩道のない時代は、夜は真っ暗闇でしたが、代わりに6月には蛍がいっぱい飛んでいました。人工的に手が加えられたことは、便利になりましたが、同時に失われたものも多いですね。
塚脇村の風景、現在祥風苑温泉のあるところに青い屋根の倉庫が見えるのは、富田漬けを製造していた勝田商店の建物、後方の景色も今は大きく変わりましたね。
青々とした田んぼには、冬は当時寒天の干場がありました。この頃を最後に止められたと記憶しています。
写した写真で、こんなに喜んでもらえて嬉しいです。
芥川の中州は今や泥の固まりのようなもので、小石も混じっていますが
細かい土が多いために雑草が生い茂ります。もし、小石や岩石だけの川原なら、雑草はほとんど生えません。昔はそうでした。
毎年、雨期が過ぎた頃、業者が川原に降りてトラックで運び出していました。建材用に使用していたのです。だから、土手の何カ所かに川原に降りる道がつけられていました。昔は堤防が蛇籠で護られただけの弱いものでしたから、中州に土砂が溜まると除去しないと決壊の原因になりました。
中州に木々が生えるなんてもってのほかでした。増水時に上流から丸太がどんどんと流れてきて、それが木々にひっかかると、水流が妨害され決壊の原因になったからです。
今、土手はコンクリートで護られ、中々決壊することはなくなりました。そのかわり、左右の土手に自生していたネコヤナギや蛇籠の小石群がなくなり、魚類等の隠れ家、産卵場がなくなり、水生生物は激減しました。蛍も幼虫は川蜷を食べて成長し、その後土の下に潜りさなぎとなり、やがて初夏に成虫になって夜空に飛び出します。
しかし、コンクリート護岸では、幼虫がさなぎになれる場所がなく、そのために激減しました。
中州を除去しないのは、予算がないからのようですが、この中州の土壌?の中に幼虫が潜り、さなぎになり、成虫になっているようにも思います。
中州が雑草で覆われるだけでなく、ビニールや空き缶、ごみのたまり場になるので、そういうことを取り除くためには、定期的に取り除く方がよいし、コンクリート土手の内側に堆積させて、そこに間伐材や蛇籠で土止めを作り、ネコヤナギを復活させ、魚や蛍が増えるといいですね。