2010年12月05日
安岡寺の階段からの眺望
寺社の景観
安岡寺の階段の上からの眺望はなかなかのものです。
木造千手観音坐像は国の重要文化財に指定されているそうです。
何時間でもいたくなる、不思議な心安らぐ空間です。
撮 影 日 2009年12月29日
撮 影 場 所 浦堂本町(安岡寺)(地図)
投 稿 者 のんちゃん
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Posted by 高槻市
at 09:00
│Comments(2)
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静寂な寺の境内は、開発されつくした服部地域で唯一寺院の森を残している風景です。
以前は広大な寺域がひろがり、服部村100余町歩の5分1にも相当するものでしたが、
明治維新で政府に没収され、寺の塔頭も1坊を残すのみで、廃棄されました。
泉蔵坊、大日院、藤本坊、阿弥陀院があり、寺が所有する田地も高70石以上もあり、
最大の地主であり、多くの収入もありました。
服部村初め、近隣諸村の有力百姓の息子で頭の良いものは、ここで学問を受けて、僧侶
になったり村役人として活躍もしました。明治維新まではこの地域における総合大学的
存在でもありました。
土地の伝承では高山右近によって焼き討ちにあったと言われていますが、実際はそうで
はないと私は考えています。永禄11年織田信長が三好勢力を攻めたとき、芥川山城を
防衛するための三好勢力のトーチカになることを避けるために、神服神社、安岡寺、摂
津守護細川氏の氏寺であったと考えられる大蔵寺、それに霊山寺などが焼かれたと考え
られ、徳川期キリシタン憎悪の意識を高める必要から、全て高山右近の所為にしたので
しょう。
徳川時代、地元出身の泉蔵坊住職良盛らの努力で寺院の建物がかなり復興され、その一
部が今に残されているものの、塔頭跡は現在参道の右側に開発された墓地になっていま
す。歴代住職の墓地も以前は般若塚へいたる高台の平坦地にあったのですが、売却され
現在地に移されました。
重要文化財になっている千手観音は、本来安岡寺のものでなく、緑が丘病院の東の山麓
にあった安照寺の本尊であり、明治維新でこの寺院も廃仏毀釈で取り壊され、仏像だけ
が安岡寺に残されたものです。
安岡寺自身にはもう文化財に値するほどのものは残されていません。天台宗の名刹であ
った大寺院の現況に往古を知るものは胸が痛みます。
新しい家が立ち並び、世の中の外観が整えられる一方で
失われるものがあるという事もしっかり
心に刻まなければいけないって
本当に思わされました。
安岡寺にも一度足を運ぼうと思います。