2010年01月19日
昔の寒天製造風景その1
農地里山の景観

直径3mもある大釜で煮られます。釜の右手の四角いものは、 煮汁を搾るための重しです。

洗って、塩分や砂を落とす作業から開始です。器械で洗われていますが、昔は手作業でした。

煮汁が舟で固められています。

二人一組になって、干されて行きます。
撮 影 日 昭和47年1月
撮 影 場 所 原(寒天小屋内)(地図)
西之川原(天場)(地図)
投 稿 者 古藤幸雄
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Posted by 高槻市
at 08:50
│Comments(11)
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失礼致します。
シン
裸電球、ドラム型の洗濯機?のような機械、プラスチック?の脱衣籠みたいだ~など、興味深く写真を見せていただいています。
確か未だ「摂津峡通り」が存在しなかった時分だったと思います。(「摂津峡大通り」でしたら失礼します。)
今ある祥風園の前から伏し原バス停の手前に抜ける細道付近のお宅の前に少しだけ干してありました。
それを見た好奇心の強い友人は近くにいたご婦人に「これは何ですか?何に使うのですか」と尋ねたところ
「テングサです、これで寒天をつくるんです」とおっしゃった記憶があります。
干してある量を考えたらもしかして卸用ではなく、個人のお宅の食用に干してあったのかもしれませんけど。。。(^^;)
(真ん中の写真で沢山の丸いカゴ一杯に入っている、黒く見えるものは恐らくテングサでしょうか)
今では見かけない風景ですよね。。。
本当に貴重な写真ですね、ありがとうございます。
寒天は服部村の風物詩でしたが、昭和50年半ば前後にすべて廃業され、今はどこにもこういう風景を目にすることは無くなりました。
寒天製造は,江戸時代後期に原、服部地域で始まった地場産業、昔は累進課税でなく基本的に農地と屋敷以外に課税はなかったので、農民による商業経営が盛んになりました。寒天製造を行うには莫大な資本がかかるのですが、大坂の町人でスポンサーになる商人があり、それに出資してもらって小百姓がこぞって寒天製造に着手、一代で大儲けして財を築いた人もあれば、借金で潰れるケースのほうが圧倒的に多いのが現状でした。
小屋を建て、釜を築き、水車を設置して洗い場を設け、寒天を干す棚場を近辺の田んぼを借りて確保し、材料のてんぐさを仕入れ、大量の薪を購入し、丹波國天田郡
あたりから作業員を確保する、大変な資本と才覚を必要としたのです。
勝負に勝った家は、天候という運に恵まれること、才覚をもっていること、この二つの条件を満たした人は成功しました。
江戸時代末期、原、服部だけでも50軒前後も釜を焚いていました。
昭和の戦後でも服部村のあちこちに休業した天場が残っていました。
西之川原橋詰めに残っていた最後の天場も、昨秋取り壊されました。
この写真は、昭和47年郷土史クラブの生徒と保護者を市バスをチャーターして見学会に引率したときのものです。
詳しい解説、ありがとうございます。
>寒天製造は,江戸時代後期に原、服部地域で始まった地場産業、昔は累進課税でなく基本的に農地と屋敷以外に課税はなかったので、農民による商業経営が盛んになりました。寒天製造を行うには莫大な資本がかかるのですが、大坂の町人でスポンサーになる商人があり、それに出資してもらって小百姓がこぞって寒天製造に着手、一代で大儲けして財を築いた人もあれば、借金で潰れるケースのほうが圧倒的に多いのが現状でした
冬は田んぼの空いたスペースで、寒天でも干して臨時収入にとでも、、、と農家の人が気軽に作っておられた。
なんて勝手に私は解釈しておりました。江戸時代からの産業で、それも大事業だったのですね。一儲けなんて一寸博打的な匂いもしますが(--;)ふむ~
特に海に近い訳でもないこの高槻で、海産物のテングサを仕入れて寒天りに着目した点が不思議だったので、謎が解けました。流行だったんですね(^^;)
>勝負に勝った家は、天候という運に恵まれること、才覚をもっていること、この二つの条件を満たした人は成功しました。
天候に左右されるモノ作りは今も昔も大変ですよね。。。
勉強になりました~!
>一儲けなんて一寸博打的な匂いもしますが
「一儲け」とは古藤さんの本文には書いてないのに私が書いてしまいました。
大変失礼いたしました。m(--)m
寒天製造が北摂地域になぜ広まったのか、もう少し解説してみたいと思います。
ご承知のように、江戸時代の幕藩体制の経済基盤は石高制でした。全国の土地を検地し、そこからとれる米の量を量り、村単位で年貢量を決めました。税は個人負担でなく、村単位、村役人は個人の持ち高に応じて税を徴収しますが、領主は村単位で村の責任において納付を命じました。
服部村や原村は人口の割には耕地が少なく、とりわけ原の小邑城山村などは耕地が極端に少なく、服部村などに出作してやっと生計が成り立つ有様だったのです。
ですから、こういう地域では、耕地を有効利用し、そのために米作だけでなく、服部村では江戸時代初期から煙草栽培を営み、元禄時代ではその生産が全国1と言われました。
米作りも、飯米でなく、酒米や餅米を生産し、少しでも利潤をあげようとしたのです。酒造地、富田村に酒米を提供する見返りに酒の粕を入手し、それで良質の瓜を生産して奈良漬けを作り販売しました。これは江戸時代中期から盛んでした。
寒天は、原城山垣内の人、宮田半兵衛という百姓が改良に改良を重ねて、良質の寒天製造に成功しました。それが江戸も後期に近い天明年間、翌寛政年間には服部村で、岡山太左衛門が取り入れて製造に成功、その後瞬く間に北摂一帯に広まったのです。
テングサは、紀州や伊豆方面から確保していました。これは値段が高く、仕入れに要する資本は莫大なものでした。大坂商人はその仕入れ銀を貸し付けました。薪代だって、何ヶ月も焚くのですから莫大な量を確保しなければならず、近隣の百姓が冬の農閑期に近辺の山から(貧農には自己所有の山林はなく、地主に提供を受ける)刈りだした柴、薪を購入していたのです。仕入れはすべて借金です。
人足は、冬場に仕事のない丹波地方、今の福知山方面から来ていました。その人件費も膨大で、これも借金して支払うのです。
寒天を乾燥させる広大な土地、これを棚場といいますが、これも周辺の農地を借りて、借地料を支払わねばなりませんでした。
このように、すべてが借金で開始されるので、暖冬で寒天が乾燥せず、腐ったりするとそれで破産したのです。そもそも、抵当物件などない百姓が着手して失敗すると悲惨なもの、娘の身売りさえあり得たのです。
大きな地主、資産階級が始めた事業の場合は、単に潰れ百姓になるだけで済みました。けども小百姓が失敗するとたいていは離村の状態に追い込まれたのです。
そういう意味では、本当に「魔女っこ」さんがいわれるように、博打的で投機産業だったと言えます。
服部地域の風物詩的風景であった寒天づくりも、実態は深刻な課題を抱えていたのです。
という点にスポットをあてて、さらに詳しく書いてくださり恐縮いたします。
>テングサが紀州伊豆方面から確保していました。
日本海の方が高槻には近いのに遠いところから仕入れるのは何故やろう?と思い調べてみましたところ。。
黒潮の影響がある静岡、高知、など太平洋側の地域でテングサの収穫量が多く全国的にも産地なのですね(^^;)
服部村が元禄時代煙草産地であったことにも驚きましたが、それに高槻の奈良漬けが寒天つながりで生まれたとは。(JT研究所があるのも煙草つながりか調べてみます)
当時のお百姓さんが借金こさえてまでこぞって飛びついたのは、いかにも得る報酬が魅力的であったという訳ですね。
>服部地域の風物詩的風景であった寒天づくりも、実態は深刻な課題を抱えていたのです。
寒天作りの人足を丹波地方から雇っていたところなど聞くと、酒作りの杜氏がつい頭に思い浮んできますし、
娘さんの身売が高槻の村でもあったとは(;;)大変やるせない気持ちになりました。
寒村地方の農村だけにある話というわけでないのですね、、。
牧歌的な風景に飲まれておりましたが、歴史的な背景も掘り下げて考えて感じてみるものだとつくづく思いました。
寒天作りシリーズ2を楽しみにしております。(^^)
>西之川原橋詰めに残っていた最後の天場
昨年3月に「わがまち再発見ツアー」で行ったところでしょうか。
再発見ツアーに参加していてよかったと思います。