2009年11月12日
愛宕神社の分社
寺社の景観

牛地蔵さんを左側に少し歩くと小さなお社にお目にかかります。
愛宕神社分社とお呼びするそうです。

京都の愛宕さんが本家?で分社の講の方の代表の方が毎年本家に参り、お札を戴いてこられるそうです。(近所の人のお話)
どうしてこの地に分社が在るのか、又横に在る石柱の謂われも分からないとのことでした。
撮 影 日 2009年3月10日
撮影 場所 原(地図)
投 稿 者 ちーさん
↓ランキングに参加してます☆是非一日ワンクリックお願いします♪m(__)m

Posted by 高槻市
at 08:04
│Comments(1)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
牛地蔵の手前にある愛宕信仰の祠、これは多分江戸時代中期にできたものと思います。この頃愛宕信仰が盛んになりました。愛宕さんは火災予防の神、村を火災から守って下さるのを祈念して祠を建てて祭祀し、そのために愛宕神社に参るための講もできました。
原にもあるようですが、服部村でも各小邑毎に「愛宕講」があり、講田のある村もありました。神社に代参する人の旅費などをその田の収入から捻出したのです。
愛宕神は神仏習合時代には、勝軍地蔵を本地仏としていました。これは武の神ですが、旅人の安全を守る神、道祖神信仰とも結びつき、村はづれの辻などに「村の結界の守護神」として祀られたのです。
道祖神はシャグジともいい、それに勝軍の漢字が当て字に使用され、
勝軍地蔵、将軍地蔵となりました。
原の愛宕神がここに祀られたのは、おそらく原から成合に向かう村の結界であること、すぐ南に原の共同墓地が存在すること(他界への旅立ちの場である火葬場、埋葬地があるために)が理由だったでしょう。
明治以前は民家はすべて茅葺きか藁葺き、瓦葺きなど寺院を除いて存在しませんでした。寺院さえ茅葺きだったものも多いでした。だから火災がひとたび発生すると、村中に燃え広がり大被害をもたらしたので、火災への警戒心とそれを防いでくれる神への信仰は今では信じられないほど強いものだったと思われます。