2009年08月07日
「赤大路」の地名の由来!子安天満宮
寺社の景観



菅原道真が大宰府左遷の折、側室が臨月であったが、別れを惜しみ後を慕って追いこの地に来た時に産気を催し、産後の経過が悪く死去。
この折流血は輿中より洩れ道路が赤く染まったので「赤大路」の地名が起こったそうです。
その死期に臨み里人の介抱を感謝し、死後は婦人安産の神たらんと誓われ村人が社殿を建立し祀った。
撮 影 日 2009年2月10日
撮影 場所 赤大路町(子安天満宮)(地図)
投 稿 者 銭無のとっつあん
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Posted by 高槻市
at 08:14
│Comments(6)
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由来にはドラマがあったのですね。
さだまさしさんの飛梅という歌が好きです。
飛び梅伝説の道真さん縁の場所が
高槻にもあったのですね。
赤大路の地名の由来も側室の出産との関係など科学的に見てもあり得る話ではなく、道真信仰のなかで形成されて行ったものでしょう。当時西国に通じる大路といえば、西国街道しかなく、これは鴨神社のだいぶん北を東西に抜けており、それで赤大路との地名ができるのであれば、宮田あたりがふさわしいと思えます。
三島の地は縄文、弥生の昔、「和多志神」でもある朝鮮系の神「大山祇」を祭神とする渡来人が、難波のチヌの海に点在する八十嶋に上陸し、この葦や蘆の生い茂る未開の地に用水、治水のための「溝」を開鑿し、農耕可能な耕地に開発して行った部族が、「溝杭」を名乗り、やがて大勢力となって、「御島」と尊称されるようになり、4〜5世紀に氏姓制度の整備に伴い、「三島県主」と呼称されるようになった、その本貫地が溝杭から赤大路にかけての旧島下郡一帯だったわけです。
溝咋耳(耳とは「長」のことで、部族長を表している)の娘は、セヤダタラ媛、出雲の事代主神が媛のもとに通って生まれたのが、神武天皇の皇后になった五十鈴媛、別名ホトタタライスズ媛、「海を光らして」渡ってきたこの部族は、航海神であるとともに、製鉄に携わる
製鉄神でもあったわけです。だから、溝杭耳の娘も孫娘にも製鉄に関わる「タタラ」が名前に付けられています。
この八十嶋に渡来した部族は鴨族であって、一族は大和葛城(三輪山西麓の箸墓古墳の被葬者「大和迹迹日百襲媛・ホトタタライスノヒメミコ」を出し、事代主、勢夜陀多良媛を三輪山の祭神として祀り、ここでも製鉄と深い関係があったと推定されます。)や山城(上下賀茂神社、加茂川)に移りそこで勢力を張りました。
鴨族の祖神「大山祇神」を祀った鴨神社は全国に広がり、別名三島神社とも呼称されていますが、本来は鴨神社、その鴨神社の元祖が高槻市(本来は島下郡とされていたが、郡界の間違いで島上郡に編入)赤大路の鴨神社なのです。
この鴨神社の境内の一部を掘削、発掘調査された際に、天然でない赤土が出土したと言われています。高槻市が分析しているといいますが、製鉄の際に灰など鉄を含む鉱石の酸化物でないかと私は考えています。
とすると、このあたりに上古製鉄のタタラが建造されており、その結果として赤色の残土で一帯が赤く変色していた、それが赤大路の地名の由来になったものでないかと私は考えています。
三島県主の出自はだれも解明していませんが、私は八十島に上陸し
淀川北岸の荒野を耕し、農耕の集落を広げて行った鴨族、初期は溝杭と呼ばれ、その後「島」と呼称されるようになり、氏姓制度下で「三島」氏として北摂の地に勢力を張った豪族だと考えています。
その祖神は、大山祇ですが、溝杭神社、鴨神社、三島神社などの名称で全国で祭祀されているのです。
や山城にも広がり、(京都の賀茂神社、加茂川はその名残)
こどもが小学校に行っていたとき、「側室が云々」と聞いてきて、すごい逸話だなー!
と驚いたことでした。
神社の説明にもそのように書かれていたかと思います。
鉄の赤には、なるほどと思いました。
タタラと聞くと、今度は「もののけ姫」が頭の中を駆け巡っています。
最近、歴史が楽しく思えてきました。
いつの頃か、神聖化された菅原道真と関係づけた話であることは間違いないことでしょう。
この話には、ロマンがあふれるています。
それも大事なことではないでしょうか。
私はそれを大事にしたいと思います。
また、道真が左遷されたころ(901年)には、西国街道だけではなく、水無瀬→高槻→津之江→富田→総持寺(886年創建)→荊切(茨木)→吹田→江口の道筋を考えることもできます。
道真は2月1日に京を立ち3日には道明寺に立ち寄っています。
その行程を考えた場合、西国街道は遠回りになるので、近い道を通るのではないでしょうか。
また、赤い土については、海人系氏族が祭祀に使った「埴土(丹土):ハニ」つまり辰砂、丹砂あるいは砂鉄であったかも知れません。
三島地区は、水運と物資の往来ルートであり、悪霊を防ぎ追い払うための祭祀に呪力をもつ赤土が使われたのでしょう。
それが、のちの世に発掘され、村の産土神と道真を関係づけたとも考えられます。
戦争中に関わらず別の館へ行くと、家人は上席に私を座らせた。私の出自は平家であり三島の名は天皇家の下命で名乗ったと聞いた。
家紋は天皇家のふくもんを使用しています。一族のお堂の仏像から書面が出で広島大学と京大の調査で実在の僧の名があるで没収された。今の住所は大阪府茨木市宿久庄です三島の地名や神社が多いので古代の歴史に興味アリです。