2008年12月20日
淀川洪水記念碑
歴史が偲ばれる景観
枚方大橋の東、淀川沿いに「淀川洪水記念碑」があります。
↑案内看板(クリックすると拡大します)
大正6年(1917)、10月1日、淀川の大塚堤防が台風による大雨により決壊し、高槻町に甚大な被害をもたらしました。これを世にいう「大塚切れ」といいます。
決壊により流れ出た濁流は、大塚あたりの家並みをあっという間に押し流し、天神山の山際あたりまで浸水、さらには、安満、野田あたりまで浸水したという記録も残っています。
なお、この「洪水記念碑」は、「大塚切れ」の惨禍を伝えるため、昭和6年(1930)10月に建立されました。
撮 影 日 平成20年11月10日
撮影 場所 大塚町3丁目(淀川洪水記念碑)(地図)
投 稿 者 文化財スタッフの会 散策部会
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Posted by 高槻市
at 09:39
│Comments(7)
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想像するとゾッとしますね。
淀川の石碑としては、惨禍を今に伝える「淀川洪水記念碑」の他に、
「鵜殿葭の原碑」、「くらわんか舟発祥地」、「明治18年洪水の修堤碑」、「唐崎築堤碑」等が存在します。
淀川は、人々の生活と経済活動を支え、時には猛威を振るい、人々の生活を呑み込む。
石碑から、淀川との往年からの付き合いが偲ばれます。
後世に伝えるためにも、石碑という変わらぬかたちで残すことは重要ですね。
高槻ええとこブログは、本当に高槻に誇りと愛着を持つ人達がたくさんいることが伝わってきます。ええとこの風景にはそこに関わっている粋な高槻人が必ずいるんですね。
おかざきも粋な活動をしてる人達がたくさんいます!どんどん人の輪を大きくつないでいければと思います!
「淀川」などと穏やかな流れをイメージする川の名前ですが、大河だけに暴れると恐いですね。
「上牧町2丁目の田舟」(2008.6.5掲載)で、新築の家の庭先に小船を置いていましたが、災害に対する心構えを忘れないためのモニュメント的なことからだと思えてきました。
中川さん、私は当時津之江に住んでいましたので、堤防修復作業に参加しました。
喉が渇いたので「水、ください」というと、「そこのヤカン、飲んでや」とのこと。ぐっと飲むと、なんと!酒? 酒で馬力をつけていたのです。
きのしたさん、「岡崎」といえば山岡荘八の大河小説「徳川家康」
が一番に浮かびます。
竹千代の成長に期待をかけ、艱難辛苦にたえた家臣団が印象的でした。その強力な結束力の血は現在の岡崎に引き継がれていると信じます。粋な輪が広がることお祈りします。
書き出しでは田舟となっていますが、コメントで洪水の話が出てきています。
堤防修復作業に参加したせいろうさんのご自身のお話、おもしろく読みました。
コメントにURLが書けないようなので、kimamaの名前のところに記事をリンクしています。
また、梶原一里塚(2007.2.4掲載)や、(上牧)春日神社(2008.11.8掲載)での案内板を見る限り、
水害に何度も見舞われている事がうかがい知れます。
私も昨年末に梶原一里塚の撮影に足を運んだのですが、その際に近所のおばあさんと偶然
お話できました。いつの水害のことかは分かりませんが、昔に東海道線よりも南ぐらいまで水が来た
ことがあるとおっしゃっておりました。
高槻市の出しているハザードマップは大げさでも何でも無いなと実感した次第です。