2008年12月22日
古代へのロマン!闘鶏野神社と闘鶏山古墳
寺社の景観

闘鶏野神社(ツゲノジンジャ)は、創建年は不明ですが、裏山の古墳時代前期(4世紀前半)の闘鶏山古墳を護り、古くからこの地の鎮守として信仰されてきたのでしょう。闘鶏野(ツゲノ)の名称は、『日本書紀』仁徳62年条にある「闘鶏氷室」伝承に由来するそうです。
撮 影 日 2008年11月17日
撮影 場所 氷室町6丁目(闘鶏野神社)(地図)
投 稿 者 銭無のとっつあん
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Posted by 高槻市
at 06:09
│Comments(7)
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お正月の準備をされていました。そして是非31日の夜に来てくださいと
誘われたのですが寒いので伺えませんでした。
皆さんで協力して準備されていたのが印象的でした。
勿論、とっつあんさんに教えて頂かなければ読め無かったでしょう。 折をみてお参りします。
「是歳 額田大中彦皇子猟于闘鶏時皇子自山上望之 瞻野中有物 其形如盧 仍件使者令視還来之日窟也 因喚闘鶏稲置大山主 問之曰 有其野中者何 *矣 啓之曰 氷室也(後略)」 〔*=穴/音、窟(屈→音)=窖=ムロ〕
のような一文がヒットしました。
個人的には「古墳のある街並みから」の闘鶏山古墳、闘鶏野神社の記事が楽しめました。
「高速道路のためなら氷室地域の鎮守の境内なんか分断してまえ」という声が圧倒したことを示す証拠ですが、何とも子供じみた時代があったものだと思います。
是歳。額田大中彦皇子猟于闘鶏。時皇子自山上望之。瞻野中、有物。其形如廬。仍遣使者令視。還来之曰。窟也。因喚闘鶏稲置大山主。問之曰。有其野中者何窟矣。啓之曰。氷室也。
[是の歳、額田大中彦皇子、闘鶏(つげ)に猟せし時、皇子山上より之(これ)を望む。瞻野中に物あり。其の形は廬(いおり)の如し。仍(よ)りて使者を遣わして視(み)せしむ。之に還り来りて曰く、「窟なり」と。因りて闘鶏稲置大山主を喚び、之に問ひて曰わく、「其の野中に有る者は何の窟ぞ」と。之に啓(もう)して曰わく、「氷室なり」と。]
皇子さんが、土地の顔役に「あれは何や」と聞いたら「氷室でおます」と言ったので、朝廷に氷を献上することになったという話の一部ですが、高槻市発行『いにしえ物語』では「これは奈良の都祁(つげ)の話であって、高槻の闘鶏という地名は明治になって日本書記を誤読した人が、氷室という地名から、新たに付けた名前だ」と主張されているそうです。奈良には氷室神社があり、日本書紀の同じ話が伝承されているそうです。
氷を日本書記の出来た奈良時代の奈良の都に運んだのか、それとも仁徳天皇のおられた難波に運んだかでも話は違います。城跡歴史館の方、何かご存知ないですか~?
明治時代だと記録は残っていそうですね。
とりあえず、「いにしえ物語」を読んできまーす。
「氷室」の地名伝説も同じだと思います。
いつの頃からか、言い伝えられた地名伝承にロマンを感じるのも面白いのではないでしょうか。
天皇陵は、江戸時代の学者、蒲生君平の『山陵志』が基準になってしまいましたが、問題は山積されています。
私は、あえて決めずに、ロマンを求めたいです。
以下のHPでその本の存在を知ったのですが、市図書館のHPで検索しても出てきません。
日本書紀の記事が奈良の話であることや、高槻の闘鶏野という名が明治期に誤解によってつけられたことは理解できます。となると高槻の氷室は、奈良に運ぶにも難波に運ぶにもちょっと遠いので、残るのは
1.地元の人による地元用の氷室だった
2.若狭から結局奈良に入れず、三島に葬られた継体天皇用の氷室だった
あたりかと想像されます。何かご存知の方はご教示いただければ幸いです。