2008年12月14日
八幡大神宮
寺社の景観
城跡公園の東側に、江戸時代に高槻城の守護神だったとされる八幡大神宮があります。
社殿は現代的な感じですが、適度な広さの境内に大きな樹木もあり、静かで散策に適しています。
境内には教育委員会の説明板と、神社が建てた由緒書が二つ立っており、前者には「戦国時代に高山氏の兵火で消失した」とあるのに対し、後者には「高山右近の放火により社殿、什宝類ことごとく消失」とあり、少し説明が違っています。
その後の高槻城主によって寛永年間に再建されたそうですが、そんな惨事などなかったかのような落ち着いた境内です。
撮 影 日 2008年11月15日
撮影 場所 八幡町(地図)
投 稿 者 岩崎健一郎
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Posted by 高槻市
at 09:09
│Comments(3)
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市街地に鎮守の森があるのは貴重ですね。
ここも磐手杜神社や野見神社などと同じようなお祭りがあるのでしょうね。どんな様子か知りたいものです。
八幡大神宮の災難に対するニュアンスが違うのは興味深いことですね。このまま両方の掲示を続けてほしいと思います。
「八幡大神宮」をクリックして読んでみますと、「歴代城主の信仰が厚かった。」とありましたが、ここは「篤」でないと、しっくりきません。現在の辞書では、厚も篤も同列にしていますが…。
久し振りに人気の出たNHK大河ドラマ「篤姫」が昨夜終わりましたが、篤姫が生まれたとき、厚でなく篤と命名したのは漢字の意味が違うからで、そこに親心を感じます。
厚:もものあつみが大きい。多いこと。深いこと。
篤:誠を尽くす。重んじる。 で、ニュアンスが違うのです。
農業に熱心な人を篤農家と言いますが、これを厚農家と書いたら、それこそ我田引水型の、厚かましい農家をイメージします。
戦後の漢字教育で、日本民族の心を表現した言語を随分失ってきました。言語を失えば、基になっていた心情も失いかねません。近年のおぞましい事件を見るたび、そんなことを考えます。
因みに、高槻には右近に焼かれた・破壊されたという伝承を持つ寺が13、神社が4つあります。
高槻市発行『新いにしえ物語』は、焼かれたのは天台宗・真言宗・禅宗など江戸時代になって幕府の庇護を受けた寺院や、後の高槻藩と関係の深い神社ばかりなので(民衆色の強い浄土真宗の寺も3つ入っているのですが、伝承の根拠が薄弱と切り捨てています)、そういった寺社が江戸時代の権力に迎合し、キリシタン弾圧政策に加担するために捏造したものだと結論づけています。右近の時代には領民の過半数がキリシタンになったので、寺社が不要になり、右近がこれを破壊して教会に転用したのだと考えているようです。
全国で寺社・教会の焼き討ちが普通に行われていた戦国時代の事を、乏しい証拠で右近だけを美化するのは身びいきが過ぎると思います。