2008年12月02日
栄枯盛衰!観音寺の今…
寺社の景観


観音寺は、永禄年間(16世紀中頃)に中興。高槻城主第3代永井直種を大檀家とし、以後永井家の祈願所として隆盛を極めました。
しかし、明治4年の廃藩置県で大檀家を失い寺運は衰退しました。
彼の地に立って、往時を偲んでみてはいかがでしょう。
撮 影 日 2008年10月29日
撮影 場所 氷室町4丁目(地図)
投 稿 者 銭無のとっつあん
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Posted by 高槻市
at 09:00
│Comments(6)
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また、氷室についてですが、市が発行している「いにしえ物語拾遺」には、氷室の地名の由来は「氷室塚」とあります。詳しい方がいらっしゃいましたら教えていただきたいです。
また、お隣の町の名前、「土室(ハムロ)」がありますが、ハムロの「ハ」は、「埴輪」の「ハ」とのこと。。埴輪を保管していたんで、土室と呼んでいたって聞いたことがあります。
いずれにしても、このあたりは古代からのなぞがいろいろ潜んでいそうです。
簡単に説明はいれました。
またの、機会にUPされると思います。
昔は、氷は、貴重品だったので、それを保管するところも、それなりの権威があったようです。
「土」も「埴」も同じ意味があります。「埴土」と言って神聖なもののようです。
当時も遺跡の発掘が行われていまして、阿武野の方へ見にいったものです。
先日、鵜殿のヨシ原をネイチャークラブの方を講師に歩きましたが、あそこにも縄文遺跡があったことを知りました。
高槻は古墳や遺跡だらけ。古代から自然災害が少なく、住み良い土地だったんですね。
似報闍黎飯正成 闍黎(じゃり=庫裏)に飯正に成るを報ずるに似たり
午鐘徐度一山鳴 午鐘徐(おもむろ)に一山に度(わた)りて鳴る
記曽送客澱江上 記(おぼ)ゆ かつて客を澱江(=淀川)上に送り
日落烏啼聞此声 日落ち烏啼きて此の声を聞きしを
淀川の辺(又は淀川から城下の自宅への帰途)で観音寺の鐘を聞いたと言っているのです。「観音寺」がこの氷室の観音寺のことなら、なんとも長閑な江戸時代の高槻の風景が浮かんできます。