2009年12月03日
晩秋の樫田、二料周辺
農地里山の景観

鎌倉時代初期、田能ノ庄には佐伯氏と藤井氏という6名の根本住人、名田地主がいました。
彼らは、樫船神社とその神宮寺に2体の仏像と2体の神像を造像して寄進しました。
二料はその内の藤井氏を中心にして広がった集落、そのため子孫は田畑の広がる谷奥に氏神を建立し、祭祀しました。
それが藤井神社です。

バス道をはずれて田んぼ道を1キロは遡らなければ辿れない奥地、村人以外訪れることはない神社で、静寂そのもの地に鎮まっています。
宮に通じる谷川の清流には、日だまりに小魚の影がいっぱい見えました。
二料山荘を訪れる人は多くても、この神社を知る人はまずないでしょう。


二料の集落のたたずまいと、集落を彩る南天、柚子がとても清潔に感じられました。
撮 影 日 2009年11月
撮影 場所 二料(地図)
投 稿 者 古藤幸雄
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Posted by 高槻市
at 07:59
│Comments(4)
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すばらしい光景、すばらしい編集ですね。歴史、風景観察、叙情の三者が渾然一体となっているできばえに感心しています。
今年6月妻と連れ立ち茨木市周りで二料山荘に遊びましたが、その途次山荘の西近くに藤井神社に通ずる参道を見ました。
自ずと「何か由緒ありそう」と感じました。しかしながら面倒に感じる気持に妨げられて参詣しませんでした。
今ブログにその神社の風致を見ることができます。
「地に鎮まる」とは、すばらしい観察、みごとな表現だと思います。
ありがとうございます。
先生は中国文学の専門家でいらっしゃる。ですから、観察眼の鋭さに
いつも敬服し、コメントいただけることを光栄に思っています。
私は若い頃から文学青年で、一時は川端文学に凝りました。正岡子規や蕪村からの影響も受けて、自然自分自身の観察眼は写生風になります。
専攻は英文学でしたが、ヘルマンヘッセやリルケのほうが好きで、堀辰雄にも没頭しましたので、外国文学向けには頭の構造ができてなかったのでしょうね。
歴史小説を書こうと藤村の故郷を訪ね、「夜明け前」の歴史考証の確かさに驚かされ、それからはひたすら近世の古文書額に没頭しました。古文書に明け、古文書にくれる毎日、それが30代半ば前後。
趣味でスケッチもしますが、これも忠実な写生で、写真も同様です。娘はデザイナーなので、私よりずっと大胆な構図を作りますが,私は古風で才能無く限界です。
樫田は昭和39年、40年に中学に勤務し、最初の赴任校でしたので、
毎日地域を歩き続け、地元の人よりも樫田を良く知っている人間になりました。自分の故郷のように愛している村です。昔は藤、つつじ、山吹、あざみ、ささゆり、卯の花などが、バスの車窓いっぱいに広がって見え、言葉では表現しきれないくらい美しい里でした。むろん、家々は藁葺き屋根が多く、情緒豊か、冬は雪が多く、学校の裏の斜面でスキーもしました。
雪で年間3日くらい休校にもなりました。
秋は松茸、生徒が持ってきてくれ、宿直室ですき焼きをして食べていました。
小川には珍しい小魚もおおく、佃煮にして食べさせてくれました。
ワラビ、ぜんまい、蕗など、山菜も豊かで、いつも子どもが持ってきてくれました。
私はバイクに乗り、村中を走っていました。親しくなった家でお風呂に入れてもらい、食事をごちそうになることもありました。
24、25の頃で、本当に楽しい青春時代を送った懐かしさいっぱいの村なのです。
11月30日、バイクで出かけ、あちこち写真を撮って廻りました。当時教えた子どもが今年還暦を迎えています。
今では第五中学校、母校も無くなり大変さびしい限りです。
しかし懐かしい写真と共に故郷を良くご存知の方がお書きになった記事を拝見し何も遊び道具の無い中を、ただ走り回るだけで楽しかった中学生の頃を懐かしく思い出しています。
神宮寺も移設前の茅葺だった本堂が鮮明に思い出せます。
また素晴らしい写真を期待しています。
昭和34年のご卒業とのこと、私がお世話になる5年前に卒業されているのですね。そんな方が私の投稿写真をご覧いただいて、お便りを下さりすごく感動しています。
樫田は私の人生にとって最も思い出に残る村、そして記憶に残っている懐かしい村です。
西田さんは田能でしょうか。それとも二料、出灰でしょうか。
私が教えた生徒で記憶にあるのは、田能の西田徹君、かれは当時難関だった府立高専に進学した秀才でした。同学年に西田静子さんという美少女がいました。彼女は二料から通学していました。
1年下に出灰の西田香代子さんという生徒がいました。その3人を記憶しています。
私は、その後6中、7中、8中に勤務し、多くの生徒を教え、担任をしましたが、教えた生徒の名前をほとんど覚えているのは5中だけです。40代半ばで教壇を降り、市教委を経て校長を勤めましたが、最後の8中で教えた生徒の名前は思い出せないのが多くなりました。
24歳のとき、病気で会社を辞めて年度途中から教職に就きましたが、樫田の温かい人情がどれほど心の安らぎになったことでしょう。
校務員の吉田さんにはとても親切にしていただき、今も神戸でご健在、年賀の交換をしています。当時PTA会長は中舍さん、渡邊先生には植物のこと、山椒魚や魚のことを沢山教えていただきました。34年というと、迫田先生がおられたでしょう?早くに鬼籍に入られましたが、当時のことを
よくお聞きしました。
樫船神社、明神が岳、外畑など生徒たちと良く行きました。ポンポン山に
登り、善峰寺にまで歩いたこともありました。
本当にあの頃の樫田までのバス道路の四季とりどりの美しさはまぶたの裏に焼き付いています。