高槻のええとこブログ
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2009年03月09日
太閤道の石(岩?)
市街地の景観
↑白馬石
↑座禅石
↑秀吉の忘れ石
先日、太閤道を歩いてきたので撮ってきました。
秀吉が試し斬りしたと言ういわれのある石もあったはずなのですが、見つけられませんでした。
撮 影 日 2009年2月15日
撮影 場所 成合(
太閤道
沿い) 白馬石(
地図
)、座禅石(
地図
)、秀吉の忘れ岩(
地図
)
投 稿 者
高槻巡
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タグ :
言い伝え
史跡
成合
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Comments(6)
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この記事へのコメント
投稿者:
上ひら
「太閤道」って聞いたことはあったのですが、、、
>太閤道は、明智光秀の謀反の時、四国・高松城の水攻めの途中で引き返した太閤秀吉が山越えをして、大山崎の合戦に挑んだことから呼ばれるようになった。(参考:http://tekuteku.chu.jp/20-1026taikoudou.htm)
なんですね。
秀吉が山崎で明智光秀と対峙するまえ、座禅や試し切り、そして、白馬にまたがり気合を入れたのでしょうか?
由来が分かればなお面白いし、ハイカーにもその存在が分かるように、小さな案内版があればいいなぁ~と思いました。
2009年03月09日 16:25
投稿者:
高槻巡
コメントありがとうございます
投稿時に説明を思いっきり端折ってしまってしまいました、申し訳ございません。補足させていただきます。
白馬石には簡単な案内板(?)が付いていて「名命 白馬石 金龍寺」となっていました。
忘れ岩には手書きの説明板がありました。風雨で読みづらくなっておりましたがかいつまみますと、
「光秀討伐途中にここの岩が道を阻んでいたが、太刀を突き立てると三つに砕けた」となっています。
ちなみに私が探していた試し斬りをしたといわれる石はもっと小さく腰掛けることが出来るぐらいの
大きさです。15年ぐらい前には島本高校ワンダーフォーゲル部手製の説明版が設置してありました。
座禅石は金龍寺跡よりちょっと下にありますので、それ絡みかもしれません。
しかし、上ひらさんの仰る様に秀吉の行為が元で命名され金龍寺で言い伝えてきたのかもしれませんね。
2009年03月09日 18:05
投稿者:
Sera
高槻巡さん、
太閤道ってあるのですね。それすら知りませんでした。
白馬、座禅石、秀吉の忘れ石と伺うと気分が一気に戦国時代モードになりそうです(笑)
そしてまた歴史が身近に感じられました。ありがとうございました。
2009年03月10日 11:30
投稿者:
いわけん
金龍寺という名前は知っていましたが、太閤道については殆ど知りませんでした。史跡については好きで色々見たりしますが、太閤道などという全国区ブランドになりうるものがあったとは。高槻の皆さん、知ってました?
金龍寺は延暦9年創建で、戦国時代に右近に焼かれた後再建されて、江戸時代は桜・松茸の名所として賑わったそうです。
能因法師「山寺の春の夕暮れ来て見れば入相(いりあい)の鐘に花ぞ散りける」(新古今和歌集)と詠んでいたり、西行や芭蕉も句や文を残しているそうです。
寺社・史跡・町家・近代建築と資源の宝庫の高槻。それを活かしきれていない我々は一体…
2009年03月10日 15:38
投稿者:
せいろう
30年ほど前、初めて太閤道を歩きました。当時は山道の整備がされていませんでした。
4年前に白川郷を訪ねるに当り、「荘川の桜」(高槻出身の実業家・政治家、高碕達之助と桜博士の笹部新太郎が中心になって、ダムに沈む老桜2本を移植して救った)を調べる過程で、笹部新太郎氏が金龍寺に桜を植えたことを知り、現地を見に行った時には、山道がキレイに整備され、歩きやすくなっているのに感心しました。
近年、新聞などのハイキングイベントで、太閤道コースの名前がよく出るようになりました。
道を整備すれば人を呼びます。人がよく来れば道の整備にも熱が入ります。景観維持の常道なのでしょうね。
その時調べた「金龍寺の桜」について、次のコーナーに書いてみます。
2009年03月11日 16:55
投稿者:
せいろう
(いわけんさんのコメントと多少ダブルかもしれませんが…。白川郷訪問時の資料から抜粋してみます)
金龍寺の桜
金龍寺は延暦9年(790)の創建で、当初「安満寺」と呼ばれ天皇の御幸があったほど格式の高い天台の名刹であった。
能因法師の「山寺の春の夕暮れ来て見れば入相の鐘に花ぞちりける」という歌は、今も長唄「娘道成寺」に使われている。(入相:日没の頃。夕暮れ。)
一時衰退の後、康保元年(964)、一遍上人の浄土信仰を広めた高僧、千観(せんかん)が再建し「金龍寺」と名前を変えた。
その後、織豊期初めの兵火で焼失したが、豊臣家が再建し、江戸時代には桜と松茸狩りの名所として知られ、その賑わいは「摂津名所図絵」に、2頁にわたって残されている。
しかし明治の廃仏毀釈で殆んど無住に近いまま荒れ放題となった。
笹部新太郎氏が調査に訪れた昭和13年には、老僧が一人雨漏りのする本堂で、電気も水道も無い暮らしをしていて江戸時代の面影は無かった。
桜を愛する笹部氏は往時を思い、無駄になるだろうことは承知の上で、翌年トラック一杯分の山桜の苗を植えた。
「奇特なことで…これで西行はんも能因はんも喜びまっしゃろ」という老僧の声を背にした後、太平洋戦争、戦後の混乱等で再訪する機会のないまま終わった。
この時の老僧の後は続かなかったようで、寺籍は岐阜県に移され廃寺となり、昭和58年にハイカーの火の不始末で本堂が焼失した。
現在では、金龍寺の由来よりも「太閤道ハイキングコース」の休憩地点として知られていて、道は整備されている。
山裾からの石段と、放生池の石組みが寺の面影を残しているのみで桜の姿は無い。
ただ、この金龍寺桜の孫生(ひこば)え(根元からでた芽)を育てたといわれる桜が、桑名の照源寺で巨木になっているそうである。
2009年03月11日 17:52
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>太閤道は、明智光秀の謀反の時、四国・高松城の水攻めの途中で引き返した太閤秀吉が山越えをして、大山崎の合戦に挑んだことから呼ばれるようになった。(参考:http://tekuteku.chu.jp/20-1026taikoudou.htm)
なんですね。
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ちなみに私が探していた試し斬りをしたといわれる石はもっと小さく腰掛けることが出来るぐらいの
大きさです。15年ぐらい前には島本高校ワンダーフォーゲル部手製の説明版が設置してありました。
座禅石は金龍寺跡よりちょっと下にありますので、それ絡みかもしれません。
しかし、上ひらさんの仰る様に秀吉の行為が元で命名され金龍寺で言い伝えてきたのかもしれませんね。
太閤道ってあるのですね。それすら知りませんでした。
白馬、座禅石、秀吉の忘れ石と伺うと気分が一気に戦国時代モードになりそうです(笑)
そしてまた歴史が身近に感じられました。ありがとうございました。
金龍寺は延暦9年創建で、戦国時代に右近に焼かれた後再建されて、江戸時代は桜・松茸の名所として賑わったそうです。
能因法師「山寺の春の夕暮れ来て見れば入相(いりあい)の鐘に花ぞ散りける」(新古今和歌集)と詠んでいたり、西行や芭蕉も句や文を残しているそうです。
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その時調べた「金龍寺の桜」について、次のコーナーに書いてみます。
金龍寺の桜
金龍寺は延暦9年(790)の創建で、当初「安満寺」と呼ばれ天皇の御幸があったほど格式の高い天台の名刹であった。
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一時衰退の後、康保元年(964)、一遍上人の浄土信仰を広めた高僧、千観(せんかん)が再建し「金龍寺」と名前を変えた。
その後、織豊期初めの兵火で焼失したが、豊臣家が再建し、江戸時代には桜と松茸狩りの名所として知られ、その賑わいは「摂津名所図絵」に、2頁にわたって残されている。
しかし明治の廃仏毀釈で殆んど無住に近いまま荒れ放題となった。
笹部新太郎氏が調査に訪れた昭和13年には、老僧が一人雨漏りのする本堂で、電気も水道も無い暮らしをしていて江戸時代の面影は無かった。
桜を愛する笹部氏は往時を思い、無駄になるだろうことは承知の上で、翌年トラック一杯分の山桜の苗を植えた。
「奇特なことで…これで西行はんも能因はんも喜びまっしゃろ」という老僧の声を背にした後、太平洋戦争、戦後の混乱等で再訪する機会のないまま終わった。
この時の老僧の後は続かなかったようで、寺籍は岐阜県に移され廃寺となり、昭和58年にハイカーの火の不始末で本堂が焼失した。
現在では、金龍寺の由来よりも「太閤道ハイキングコース」の休憩地点として知られていて、道は整備されている。
山裾からの石段と、放生池の石組みが寺の面影を残しているのみで桜の姿は無い。
ただ、この金龍寺桜の孫生(ひこば)え(根元からでた芽)を育てたといわれる桜が、桑名の照源寺で巨木になっているそうである。