2007年09月06日
高山右近の像
歴史が偲ばれる景観
Posted by 高槻市
at 09:14
│Comments(9)
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この記事へのコメント
投稿者:はせがわ てつろう
キリシタン大名として有名な高槻城主の高山右近。小学校か中学校の歴史の教科書に載っていたことを思い出します。全国区としての高槻をささえる先人の一人ですね。
2007年09月06日 12:08
投稿者:あゆみ
高山右近はなんと21歳で高槻城主になり、そのことにより高槻は畿内のキリスト教布教の一大拠点となったそうです。高槻城跡公園は広く、緑も水もたくさんあるので、散歩にはとても最適ですね。
2007年09月07日 12:17
投稿者:ひらっち
キリシタン大名の顔以外にも、茶人として、武人として生きた右近の人生は、波乱万丈で非常に興味深いものです。全国区の高山右近ですが、あと8年後に没後400年の節目を迎えるんですよね。右近にちなんだ地域情報の発信ができないものですかね。
2007年09月07日 12:18
投稿者:ふじい
私も高槻歴は浅いですが、高山右近については、なんとなく知っていました。この銅像の場所も高槻の中心市街地にあり、情報の発信源としては、とても良いかもしれませんね。
私もちょっと調べてみると、右近は、織田信長、豊臣秀吉、前田利家など、数々の大名に仕えていたみたいですね。
また、とても人徳もあったようです。
調べればいっぱい出てきて、面白いですね。
2007年09月07日 13:47
投稿者:永野晴朗
右近が高槻にいたのは、およそ12年。その間での右近最大の危機は、織田の大軍に城を囲まれたとき。その際の右近の行動が彼の真骨頂といえると思います。
刀を捨て、髷を切り、衣服を律宗の僧が用いた紙子にあらため、足袋を脱いだ素足に草履の姿で信長の本陣へ行き、全てを捨て、キリシタンの一修行者になることを条件に、家臣・領民・宗門の保護を頼み、かなわぬなら殉教を願ったとあります。
生涯棄教しなかった信念は高槻で培われたと思います。それゆえ、わずか12年の高槻城主でしたが、「高山右近といえば高槻」
となるのでしょう。 像から孤高さを感じます。
2007年09月07日 18:55
投稿者:三代目
高山右近といえばやはり荒木村重謀反の際の高槻城でのやり取りだと思います。数々の困難が降りかかろうともキリスト教に捧げたその生涯は凄まじいものだったと思います。
血で血を洗い戦い抜く戦国武将、安土桃山時代を代表する文化人、そしてキリスト教徒としての信念・・・三つの顔を持ちそれぞれの分野で非凡な才を残した高山右近・・・。
彼の凄まじい生き様に憧れを抱いてしまいます。
2007年09月09日 15:51
投稿者:あゆみ
みなさんのコメントを読ませていただき、知らなかったことを勉強させてもらいました。ありがとうございます。
これからは今までとは違う見方で、高山右近像を見れそうです!
2007年09月11日 09:55
投稿者:マツサカ
右近は、キリシタン大名としてだけでなく、茶人としても名高かったようです。茶道を究めた右近は「南坊」と号し、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られています。右近にとって茶道は、楽しむための趣味ではなく、心を落ち着かせて神を信仰する術であり、茶の道は神へ通じる道だったようです。
2007年09月12日 20:42
投稿者:うこんの力
高山右近と中川清秀の陣城見学のご案内★JRハイキング
【日時】1月24日(土)10:10 余呉駅集合
【コース】賤ヶ岳合戦の砦跡(岩崎山や大岩山)を歩きます。
【参加費】800円(希望者のみ別途資料代として1000円)
【ポイント】愛知中世城郭研究会「長谷川博美氏」の案内付き
※要申込(余呉町観光協会まで)
電話 FAX 0749-86-3085
2009年12月31日 11:01
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