2013年06月25日
服部図書館
市街地の景観

私が一番望んでいるのが、6月30日オープンする予定の服部図書館です。
高槻市には、色々ええとこがあるとは思いますが、一番身近でオープンが、
待たれるのがここです。
最初は、なんで 浦堂図書館違うのと、不満が、正直ありましたが・・・
でも服部という地名は、歴史あるものでしょうから、
服部図書館になったのでしょう。
撮 影 日 2013年6月11日
撮 影 場 所 浦堂本町(地図)
投 稿 者 エミ(VG槻輪)
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Posted by 高槻市
at 08:45
│Comments(4)
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現清水地区も大蔵司、宮之川原、西之川原、浦堂、塚脇の5垣内だけがあって、集落も総て会わせても300所帯余でしたが、それが清水小の西南が住宅化し、大蔵司には雇用促進住宅がたち、摂津峡ハイツが造成されてゆき、家数は一気に増加したのです。
それまで、この清水地域は総てが大字服部でした。今の真上小あたりが大字服部1番地、大蔵司の集落は100番台、宮之川原の1000番台、塚脇は2000番台でした。300世帯しかなかった時代は郵便屋さんも困らずに配達できたのですが、2000軒、3000軒になるとわからなくなり、そこで、服部を小字の5垣内で呼称することとなって、それが今の地名になったのです。「服部」の地名はバス停にだけ残りました。
しかし、地名「服部」は歴史と由緒のあるもので、古代の律令制開始のとき、既に現高槻市内に成立していた5郷の一つで、「服部郷」と呼ばれていました。真上郷、野見郷、児屋郷、高上郷とともに、古くは弥生時代から開けた地でした。ここに允恭天皇の時代(5世紀半ば)に秦氏が渡来し、機業を広め、機織りの部が置かれたことから「服部」の地名が生まれたのです。
この地は古代から中世末まで「服部郷」として概ね国衙の支配する地域でした。
江戸時代には全国で最も生産量を誇った「服部たばこ」が有名で
その後、瓜の生産とあわせて「服部漬け」の名が知られ、江戸後期には「服部寒天」も長崎から海外にまで輸出される銘柄になっていました。服部のショウガもまた同様です。
服部住民の氏神は「神服神社」、秦氏の祖を祭祀していますが、この神社も本来は「服部神社」であり、ここに長く住むものにとっては、1500年も馴染んできた地名であり、消滅した今、それが図書館の名前として復活して残されることに大きな喜びを感じています。
ちなみに、「清水」は明治23年町村制施行でできた新地名であり、これは昭和6年に高槻町と合併した際に消滅しているのですが、今なお使用されているものの、その使用期間はわずか40年余りでした。
そういえば、塚脇まで行くバス停に「伏原」があります。なぜ、伏原(ふしはら)というのか教えて下さい。
この辺の百姓はすべて伏原の〜兵衛、〜右衛門と呼ばれていました。
伏原の西は塚脇ですが、ここも伏原と隣接した部分は上寺であり、塚脇はもっと西方を指しました。しかし、明治以降はすべて塚脇で纏められたのです。
私は「浦堂」図書館とした方が良かったと思いますね。そういうことを何らかの形で広く市民(住民)に聞いても良かったんじゃないか、とも思います。