2009年09月20日
浚渫を待つ芥川 その2
河川・水辺の景観

今井手井堰を撤去するまでは、こんな風景でした。
これは昭和48年の写真、河原はもう松ヶ丘や安岡寺の開発の土砂が底にたまり、決して清流ではなくなっていました。
今、この上に水道橋が架っています。摂津峡ハイツ住宅の生活排水を郡家村に流れ込まないように、右手に排水路を設け、全体にコンクリート堰を作ってきれいな水が今井手用水に流れるようにしています。

これは昭和58年の工事風景、川幅を2分1以下に縮小し、そこにバス道路と遊歩道を建設中です。
右岸の「ネコヤナギ」など季節を感じさせる木々は全滅しました。
撮 影 日 昭和48年、昭和58年
撮影 場所 大蔵司2丁目(地図)
投 稿 者 古藤幸雄
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Posted by 高槻市
at 12:21
│Comments(4)
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芥川連続講座に出席できず残念でした。
昔の芥川の写真、ありがとうございます。
今の倍以上の川幅があったのですか。
随分水の量が減ってしまったのですね。
今、目の前に見える風景が当たり前のように感じていましたので、川の中に木が生えていることにも何の疑問も抱いたことがありませんでした。ちょっと考えればとても不思議な光景ですよね。
最近、二中から摂津峡へ向かうバス道をよく通りますが、昔はこんな道はなかったはずなのにと思いながらも以前の様子が思い浮かびませんでした。
何か変化がある時にきちんと記録にとどめておくと、後から昔の様子がよくわかります。その時はわかっていても、人間の記憶は当てにならないもので、三人寄れば三人とも昔はこうだったと、違うことを言います。
このブログも何年も続けることによって、高槻がどんなふうに変わっていくのかよくわかるのではないでしょうか?
素晴らしい環境をつぶしてしまうのは簡単にできますが、元に戻すことは容易なことではありません。
このブログを見ている多くの人が高槻のええとこをいっぱい知って、高槻を今まで以上に好きになり、誇りを持ち、もっともっとええとこが増えていったらいいなぁと思いました。
私自身、高槻に生まれ育っているのに、知らないことがいっぱいあるし、いつも見慣れていたはずの場所も実は見えていないことがあってハッとさせられます。
私は地域の変化を感じ取ると、事前と事後を撮影しておこうという思いに駆られます。芥川も昭和58年の工事風景は詳細に撮影しました。南平台や芝谷の住宅開発も写しました。後になれば昔の景色は懐かしく思い出されるもので、しかも復元できないからです。
昭和20年代の写真があればと思うのですが、当時親父のカメラはあったのですが、フィルムが高価で入手できず、まだ小中学生だったこともあり、芥川の風景を残せませんでした。
昭和28年の洪水決壊以前の堤防は、今思い出してもくっきりと網膜に焼き付いており、情緒あふれる景色でした。
土手もいまよりもっとなだらかで、土手の中腹まで蛇籠で守られていました。
周辺には野イチゴ、猫柳、篠竹、萩、すすき、曼珠沙華、紫苑、
などの在来種がいっぱいあり、なだらかな斜面の土手の芝生は、
子どもたちの格好の遊び場でした。
百舌、ほほじろ、やまがら、四十がらなど今では見られない野鳥
もいっぱいみられました。
土手も、河原も、植生もすべてが大きく変わったのは28年決壊のあと新堤防が構築されて以降です。
治水、防災対策を最優先してきた行政の当時の方針に環境という
文字はなかったんでしょうね。芥川講座で行政の方の方針を聞きましたが、今でも、この環境が叫ばれる今でも、治水、防災、利便性しか担当者の頭にはないように思え、がっかりしました。
地元を管理する百姓主体の水利組合の発想も同じで、環境との調和などかけらもありません。「哲学」を有さない人が地域リーダーになるのは問題だと思います。だから、田んぼの中の用水路までコンクリートでかため、すべての水生生物は死滅しました。稗の除草には、相変わらず農薬が使用され、田んぼにはオタマジャクシさえいなくなりました。化学肥料と農薬が益々環境を破壊して行きます。
昔の故郷を知るものには寂しく、悲しいものです。
夢はいまも めぐりて 忘れがたき 故郷(ふるさと)
いかにいます 父母 つつがなしや 友がき
雨に風に つけても 思いいずる 故郷
こころざしを はたして いつの日にか 帰らん
山はあおき 故郷 水は清き 故郷
この景色が失われたのは、高度成長の頃からだと思います。私たち世代が環境のことよりも、利便性を優先した結果なんだと思います。
消費は美徳という社会風潮に、先を読んで冷静に判断する声は大きく取り上げられず、結果として流されたのではないでしょうか。
でも、ひところに比べれば、随分きれいになりました。
時間がかかっても、「故郷」で歌われた風景を甦らせたいですね。
それには、金を出す人(消費者)が、形が悪い胡瓜でも食べること。農薬を沢山使わねばならない、ひ弱なブランド米は買わないこと。など、など、を大きな社会風潮にすることだと思います。
生まれたときから、「故郷」のような風景に親しんでいれば、肉親を殺傷するような、おぞましい事件が頻発しないと思います。
ご自分が生まれ育った地域にどれほど愛着を持っていらっしゃるのかよくわかりました。
小学生の頃から、目の前に見える素晴らしい風景を記録にとどめておきたいと思っておられたのですね。
そういう目で見つめてこられたから、その頃の風景もしっかりと網膜に焼き付いているのですね。
この季節、ススキと萩を探すのですが、あまり見かけませんね。子供の頃はなんぼでもあったように思うのですが・・・
先日、仲間と田んぼの横を通った時に、昔はイナゴがわんさといたのに全然おらん、と言っていました。これも農薬のせいなのでしょうか?
最近は、そんな農薬に打ち勝つような雑草が繁殖してきていると聞きます。
高槻の人口は、私が子供の頃から比べると爆発的に増えています。そして、市役所の職員さんも高槻で生まれ育った方が少なくなってきているようです。
高槻に深い愛着を持っていらっしゃる方、昔の高槻をよくご存じの方がもっともっと情報発信して下さると今からでも少しずつ良くなっていくのではないでしょうか。
また、いろいろお話聞かせて下さい。
見ているようで見えていない大切なもの教えて下さい。