2009年05月25日
昭和43年頃の安岡寺5丁目は造成中でした。
歴史が偲ばれる景観

縁あって、ダンプが走りまわって造成中のこの土地を、私が購入したのは昭和42年でした。


ただ、造成地が出来上がってもすぐ新築をしたわけでなく、3年ほど時間をおいて、ちょうど大阪万博開催の時(昭和45年)に家を建て翌年入居しました。


当時の買物は安岡寺バス停前に今は無くなった「安岡寺町デパート」があり、そこでもっぱら食料品は購入していましたが、昭和53年隣に「大丸ピーコック」が出来、両方で買い物をしていましたが、今は大丸ピーコックだけになりました。


当時のバス代は安岡寺までは20円、上の口までは30円と今では考えられない金額でした。


その後、この沿線も人口が増えてきて通勤時はいつも満員ですが、幸い私は始発でしたので常に座って通勤することが出来たので楽でした。
撮 影 日 昭和43年頃
撮影 場所 安岡寺町5丁目(地図)
投 稿 者 yukio170215
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Posted by 高槻市
at 09:00
│Comments(5)
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ウサギ狩りは、確か山の上から麓へ追い込むんですね。ウサギは後ろ足が長いので上りは得意だが、下りは下手で速く走れないので捕まえやすいと聞いたように思います。
昭和40年代は高槻の至る所で宅地開発が行われました。
山が宅地化すれば雨水が直ぐに川へ、田圃が宅地化すれば遊水地がそれだけ減ります。
人口が増えれば先ず学校です。子供たちはプレバブ教室でした。行政も住民も大変でしたが、人口が増えるのは張り合いがありました。今では良い想い出です。
ヨハネ学園あたりから、毎日道が変わりました。ダンプ道路で山を削り、谷を埋め立て、昨日谷だったところが今日は道という具合、ものすごい砂煙でしたね。
樫田行きのバスは午前6時40分と7時20分、それを逃すと10時までなし。だから40年の4月にはバイクを買って通勤しました。バスでも片道40分、離合できず、バスがダンプとすれ違うとき、100メートルも後退することもありました。ダンプが増水した芥川に転落し、亀を裏返したように
なっていることもありました。ヨハネより北は舗装もなく、バイクだと学校につくと着替え、砂埃で真っ白、雨の後はドロドロ、朝食を食べて出勤するとあまりのひどい揺れに嘔吐するので、いつも弁当を持ってゆき、到着後の食べていました。
今は樫田まで20分ほど、道も良くなり夢のようです。
21年に入学した私は、うさぎ狩りは清水小学校のとき、ヨハネの裏でよくやりました。うさぎは先生が食べるので、児童には当たりませんでした。
懐かしい思いでです。
yukioさんの写真とても懐かしいです。
開発中のことはあまり記憶にないのですが、先生に連れられて地層の勉強をしたことだけは覚えています。
あの時に先生の話をもっと興味を持って聞いていたら・・・とふと思います。
生きた、いい教材だったのではないでしょうか?
六甲、生駒、比叡・比良、鈴鹿山地は約300万年前の鮮新世後期に地殻変動が起き、山地の上昇、隆起が起き、大阪層群堆積層である原、服部の境界が隆起して三好山(182m),中堂山(220m)が誕生、原が盆地となって閉じ込められたものです。
峠のカイガラ層はそのとき海底の隆起によって山上に表出したものです。この地層からは、大阪層群に生活していたワニの脊椎骨、歯の化石が発掘されています。