2009年01月28日
戦争のつめ跡
歴史が偲ばれる景観

この石碑を見たとたん、お正月気分も吹き飛び、他国の悲惨な戦争で犠牲者が少しでも少なくすむ様祈りました。
撮 影 日 2009年1月8日
撮影 場所 成合(地図)
投 稿 者 ちゃこちゃん
↓ランキングに参加してます☆是非一日ワンクリックお願いします♪m(__)m

Posted by 高槻市
at 08:09
│Comments(12)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
高槻のええとこ、紹介いただきましてありがとうございます。
ほんと、連日報道されているイスラエル軍のガザ攻撃のニュースなどを見ていますと、心が痛みます。
で、この「タチソ」は、「高槻・地下・倉庫」の略だとか。。
また、なにかで見たのですが、私の出身地の兵庫県の明石にある川崎重工の戦闘機を作っていた工場が破壊されたので、この高槻の地下壕をその代替の工場として使用するようにしたそうです。
ほかにも、このタチソにはいろんな歴史が刻まれているようです。
「タチソ」って何だろうと思ってましたが
上ひらさんのコメントで
「高槻・地下・倉庫」の略だと分かりました。
高槻で、このような戦争のつめ跡を見たのは初めてです。
タチソに刻まれた歴史も知りたいので教えて下さい。
タチソに刻まれた歴史をいろいろ教えてもらったような気がします。(全く覚えてないですけど。。)
わかり次第コメントします!お待ちください。。。
まだこの石碑を見たことがありませんが、
私もタチソの歴史、いろいろ教えていただきたいです。
現在は、トンネルの手前に採石場が広がり、トンネルは生い茂る樹木に隠れて見えないですね。
ダイナマイトの使用やトンネルの危険な掘削には朝鮮人労働者が当てられました。
それは私が小学校のときは人権問題としてタチソを習いました。
ただ、はっきりとしていない情報も多いようですね。
人に聞くと「…らしい」「…と思う」正確な事実を掴むのは時間がかかりそうです。
「…らしい」「…と思う」事が、多くなりましたね~
戦争の事も、体験された方が少なくなって・・・
「…らしい」「…と思う」で、解らない事が多くなるのでしょうね。
私もタチソについて色々調べてみました。
正確な事実を掴むには難しい事情があるようですね。
現在の明るく楽しい高槻を好きでいると共に、過ぎてしまった歴史も学んでいけたらなぁと思います。
1944年7月のサイパン玉砕後、軍部は日本全土に200箇所の地下施設をつくり、本土決戦に備えました。高槻市でも成合地区が秘匿地下工場の適地として軍部の注視するところとなりました。
その後、軍が関係地主を集めて、成合地区への川崎航空機の地下軍需工場の建設計画、労務者用宿舎や倉庫とその建設用地としての農地と山林の強制収用などの指示・説明が行われました。
この工事には、地元の村民や学生のほか、朝鮮人労働者も投入され、危険な作業が続いたといわれています。
そして、16本のトンネルが掘られていきましたが、完成を見ぬまま敗戦をむかえることとなりました。
ちなみに、タチソは戦後60数年が経過し、崩落の危険があり、また土地は個人所有であるため、現在は中に入ることはできなくなっています。
13年ほど前、当時学んでいた講座の自由課題でタチソを調べました。そのときレポートに、
<死者がでた時の埋葬許可が残っていて、年齢が0歳とか90歳といったものもあることから、一家全員連行の形をとったのだろうか? (参照文献「隠された戦跡1 地下軍需工場と朝鮮人強制連行」)>
と書いています。
つい、60数年前の出来事です。
歳月は、トンネルを風化させ、飯場跡には、立派な住宅が建ち、当事者や子孫であろう朝鮮の人達が住んでいます。
緑豊かで穏やかな成合の里のも、辛い一時期があったこと忘れてはならないと思います。
16本のトンネルは完成を見ぬまま敗戦を迎え、
それらのトンネルは歳月により風化・・・
わずか60数年前の、辛く切ない話ですね。
人間を鬼畜にさせる戦争の中にも愛情や友情がたくさんあったのでしょうね。
私は辛い過去ほど忘れてはならないと思います。
戦争の知らない私たちが、人間を鬼畜にさせる戦争を
繰り返さないためにも「タチソ」を忘れてはいけないと思います。
わすれてはいけないと思います