2012年12月11日
晩秋の夕日に輝くまち“浦堂本町”
市街地の景観
お地蔵堂
晩秋の夕日で暖かいお堂の中
浦堂本町への入り口
垣根に囲まれた邸宅
安岡寺への分岐道
浦堂地名の由来は、安岡寺の境内を観音堂屋敷とも言われて、この観音堂屋敷の山麓に民家が点在するようになり、「観音堂」を集落の背後に・裏に背負う村として「裏堂」村が誕生し、「裏」が「浦」に置き換えられたものとの事です。(古藤幸雄HPより)
浦堂本町の町並みは、安岡寺の門前町でどの家も武家屋敷のように重厚な家並みが揃う。
撮 影 日 2012年12月7日
撮 影 場 所 浦堂本町(地図)
投 稿 者 大岡成一(VG槻輪)
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Posted by 高槻市
at 17:00
│Comments(3)
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町名の由来を教えて頂き納得です。
宅地開発された所に住んでいますと、時々、浦堂をはじめ高槻の昔からの集落を歩きたくなります。
そこには、幼い日々を過ごしたふる里の匂いがあるからです。
これからも、そんな高槻のええとこ紹介してください。
町名の由来は知りませんでした。せいろうさん同様納得です!
浦堂は落ち着いたきれいな集落で、私も好きです。
この集落は昭和30年代はじめに大火事になり、村中の藁葺き屋根がすべて燃えました。春先だったような気がします。昼火事で、風が少しあり、飛び火で何軒も離れた家が突然火を噴き、あちこちで燃え上がり、10軒前後が火柱を天高く上げ、黒煙はもうもうと空一面を覆い、この世の終わりかと思えるほど恐ろしい光景でした。
この火事で藁葺きは1〜2軒を残して総て燃え尽きてしまい、後に瓦葺きの新築ができました。しかしそれは本来の農家としてはたいしたものでなく、牛と同居の百姓家の風情でした。その後周辺の田んぼや山林が売れ、立派な住宅に建て変わったのです。
火災の後、道路は広がりませんでしたが、家並みはたしかにきれいになりましたね。村の東側はお寺(西蓮寺)のところまで山林が迫っており、そこから先はまさにジャングル、人が立ち入ることを拒否しているようなところでしたが、そこに道路や水路がつけられ、住宅がいっぱい出来て景観は全く変わってしましました。
地蔵堂のところには中世の寺院、地福寺のあったところ、明治維新で廃仏毀釈、どんな痕跡も残していません。
ちなみに安岡寺は明治の初めまで現在の境内域の10倍以上もあった巨大な寺院、塔頭も4つあり、その本尊観音さまに因み、古くは観音堂と呼ばれていたのです。浦堂は観音堂屋敷の門前に散在する集落として広がっていったのです。
村の西部に小さな児童公園がありますが、ここも元は若宮神社のあったところ、明治末、神服神社に合祀されて消滅してしまいました。