2007年09月03日
尸陀寺(一休禅寺)跡
寺社の景観
尸陀寺跡は、室町時代中期の禅僧で、「一休咄(はなし)」でも知られる一休禅師が開創した草庵(尸陀寺)跡と伝えられています。
一休は、応永元年(1394)の誕生で、名を宗純、号を狂雲といい、後小松天皇の子といわれています。六歳で仏門に入り華曳宗雲に師事した一休は、十七歳で悟道の境地に達し諸国を行脚しました。
一休が当地を訪れたのは、嘉吉二年(1442)四九歳のときといわれ、「一休和尚年譜」には、「師初めて譲羽山」に入る。民家を借りて住す。山居の偈あり。後尸陀寺を創して徒る焉」とある。
それから五年後の文安四年、京へ戻っていた一休は、俗世の争いによる厭世観から、死を決して再び当寺を訪れる。
しかし、後花園天皇は、詔勅を送ってこれを思い止めたという。
晩年の一休は、兵火に焼けた大徳寺の第四八代住持として同寺の復興にあたり、文明十三年(1481)、酬恩庵(京都府綴喜郡田辺町)で八十八歳の生涯を終えました。なお尸陀寺は当地より約二百メートル上方に位置していたといわれ、石碑は、昭和三十七年地元自治会の手によって建立されたものです。
撮 影 日 平成19年7月26日
撮影場所 大原野出灰町(京都市西京区)(地図)
投 稿 者 文化財スタッフの会 散策部会
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Posted by 高槻市
at 10:39
│Comments(9)
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今から565年前の話ですが、山深い趣きはきっと昔のままだと思います。
昔に小さな石碑がつくられ、看板やお堂が設けられ、最近訪れた人々が当時のことを物思いにふける。
はじめは小さなきっかけですが、その思いが徐々に大きくなっている様を感じます。
小さなものにも歴史があるように、それを守って伝えていく人がいるからこういった写真に出会えるのでしょうね。
この写真からもそんな気持ちを感じんこともないです。
でも、一休さんは、決して、全ての現世のとのかかわりをすてて、草庵にこもるのではなく、大徳寺の復興に晩年の余生をかけ、人間のいいとこやわるいとこも全て、飲み込んで、そして許し、周りのみんなに元気を与え続けたって聞きます。
やっぱし、いやなことがあろうが、つらいことがあろうが、知恵と勇気で一歩進むっちゅうのが大切なのかな?と、久しぶりに子どものとき見た一休さんの、こまってもとんちでどなえか切り開いていく姿をおもいだしました。
禅師は南北朝がようやく合一した頃に生まれ、下克上の戦国時代に入った頃に亡くなっています。
禅僧の文学(五山文学)が興り、禅宗の貴族化といわれた時代。悩みを抱えて出灰の里に2度も来られたのでしょう。 そして、ここで充電し都に帰ったのでしょう。
写真から沈思黙考するのに最適の雰囲気が伝わってきます。
心が乱れたとき、せせらぎの里を歩くと、清流が悩みを流し去ってくれ、勇気を与えてくれそうな気がします。
説明文も簡潔に書かれていて分かりやすく、想像がふくらみます。
私も初めて知りました。
あと、「尸」は、「死体。死骸。しかばね」の意、「陀」は、「けわしい、くずれる」の意。
一休さんの「現世への厭世観」が表出しているような名前のような・・・・・気もします。